エドゥアール・ルイ『ある女の闘いと変身』――翻訳で読めないフランス小説3.

 子どもの時、母親が学校での面談に参加しないように手を回していた。他人に自分の母親を知られるのがいやだった――そんな感情の想起から始まる小説だ。前回取り上げた同作者の『誰が僕の父を殺したか』は作家の父親について語ったものだったが、今度は母親について語った作品だ。

 語り手の母親モニックは、長らく彼にとって敵だった。作者のセクシャリティに無理解を示し、父親の暴力に反抗もせず屈しつづけていたからだ。だが、ある日、彼は一枚の写真を発見する。一人の若い女性の顔写真。スマホもない時代にカメラを裏返しにして撮ったせいで、少し近づきすぎな感じもする。この写真は30年近く前の彼の母、モニックの写真であり、彼はこの写真を通じて彼女の半生と向き合いはじめる。

***

 家族のために働くばかりで、スーパーと家を往復するだけの日々を送っているように見える彼女にも、かつては夢があった。彼女は調理師になることを望んでいたのだが、不覚にも妊娠し退学。そして出産を経験する。このパートナーが暴力的であり、その状況から抜け出すために別の男と暮らしはじめるが、また妊娠と出産を繰り返すことになり、さらにはこの男も暴力的だった。彼女の前半生は諦念ばかりが蔓延していた。

《彼女は自らの人生から事件を奪われていたから、僕の父によってしか事件は起こりえなかった。彼女は物語をもはやもっていなかった。彼女の物語は、必然的に、僕の父の物語でしかなかったのだ。》

 そうして子供と男性の世話に支配された日常を送ることになるモニックという一人の女性が、アンジェリックという女性と出会い友情を結び、自立と自由を見出していくまでの物語だ。男や子供に従属しているだけだと作者が思い込んでいたモニックは、最終的に旦那を捨ててパリに出て、新たな自分の生活を始めることになる。それは彼にとって、信じがたいほどの変化を彼女にもたらすことになる。マニキュアをして、美容室に行き、高級ホテルのバーで大人になった語り手と杯を交わす。そんな姿は、かつては想像もつかないものだった。

《僕は母が家庭で不幸なことに見慣れ過ぎていたから、母の幸せそうな表情が、一刻も早く暴かなきゃいけないスキャンダルみたいに、詐欺みたいに、嘘みたいに思えた。》

 だが、月日が経つことにより「変身」するのはモニックだけではない。語り手の感情も「変身」していく。たとえば、親元を離れて都会の高校に通うことになった語り手は、ある時、高校で知った難しい言葉を母親に対して使う。それにフランス語の活用の過ちを正そうとする。しかし、そうした振舞いは彼女を苛立たせるだけだ。そんな過去の振舞いを振り返り、「ごめんなさい」と謝罪の言葉を物語の中に作者は書き込んでいる。

***

 こうした物語は、既にこれまでの作品でも部分的に語られてきたことである。読者はまたこの話か……と思うかもしれない。しかし、作者にとって重要なのは、何度も語りなおすことで可能なかぎり真実に近づこうとすることだ。だから、エドゥアール・ルイはオートフィクションしか書かない。同じ主題を描きつづける画家のように、同じストーリーを語り直しつづける。作中にもこんな一節がある。

《文学は繰り返してはならないと言われたが、僕は同じ物語しか書きたくない、何度も何度も、真実の断片が見えるまで書きつづけ、背後に隠されたものが現われはじめるまで、その物語に穴を穿つことを望んでいる。

***

 ところで、この小説のもっとも興味深い点は、その文体の駆使にある。エドゥアール・ルイという作家は文体について、インタビューで次のように述べたことがある。

《今日でも多くの作家が、ゾラやバルザックのものであった〈美〉や〈文学〉のイメージを保持していますし、対話、比喩、文体の偉大さ、章、登場人物といった形式の中でできる限りのことをしようとしています。これが受け入れられ確立されている文学の定義であり、作家の仕事は、この定義された枠組みの中で可能な限り秀でることなのです。》

Édouard Louis : “On ne peut plus écrire de la même façon après Annie Ernaux” | Les Inrocks

 上で挙げられているような伝統的な文学の規範に則ることを、もちろんルイは良しと思っていない。そんな規範はブルジョワ的な文学のものでしかない。この対談で、彼は簡潔で直截的な文体の使い手であるアニー・エルノーを褒めたたえている。

 だがそれならば、エドゥアール・ルイの文体とはいかなるものなのか。いかにして、伝統的な規範と異なるのだろうか。そして、このことは、「アニー・エルノー以後には、彼女と同じように書くことはできない」と宣言しているだけに気になることでもある。作家による規範からの逸脱がよくわかる一節を『ある女の…』から引用しよう。

 主人公の母親が、アンジェリックと疎遠になったことを示すシーン[「あなた」は、母親を指している]。

《しばらくして、パン屋からの帰り道で、あなたは彼女とすれ違ったが、彼女は挨拶をしてこなかった。あなたはため息をつき、目を伏せて、凝り固まった表情だった。彼女はわたしに挨拶すらしてこなかったのよ。理由が分からないわ、わたしたちって友達だったよね?》(強調引用者)

 本書では、「私(Je)」は基本的に語り手を指しているものの、時おり憑依するように、別の人物を指し示すことがある。その一例が太字で強調した部分だ。つまり、テクストの中に鍵括弧のついていない直接話法が改行もなく混ざることにより、読者はより直接的に各登場人物の発言・心内語にアクセスすることができるようになっているのだ。

 こうした効果をもたらす表現技法は、フランス語にはもちろん既に存在して、自由間接話法と呼ばれている。しかし、自由間接話法は一見すると地の文と似ているために、気づかずに素通りしてしまうことも多い。逆に言えば、地の文のように紛れ込んだ自由間接話法は、見た目としても違和感がなく美しい。しかし、誰もが自由間接話法に気づけるわけではない。

 だが、エドゥアール・ルイは、大文字と「わたし(Je)」を文中に突如挿入して、歪な文体になろうとも、文中の直接話法という文体を用いている。それは、あらゆる読者に登場人物の声を聴きとらせる企てとなり、伝統的な〈文学〉の〈美〉を破壊する。そうして、真のブルジョワ的ではない文学を、文体のレベルにおいても実現させようと試みているように思えてくるのだ。

***

【今回の小説】:Édouard Louis, Combats et métamorphoses d'une femme, Seuil, 2021.