「『ル・モンド』使用法」――翻訳で読めないフランス小説1.

 『ルビー・スパークス』という映画がすこし昔にあった。その映画は、スランプの作家がタイプライターで描写した女性が実際に目の前に現れてしまうという話なのだが、このタイピングすると現実になってしまうという設定は、ちょっと難しく思想的な言葉を使うのなら、「パフォーマティブ・行為遂行的」の一種とでも言えるだろう。書くこと=現実化⇒パフォーマティブ。雑かつ矮小化しすぎていて専門家には怒られるかもしれないけど、とりあえずそうしておこう。ちなみに、この映画のヒロインを演じたゾーイ・カザンがあまりに文学オタク男子の妄想を刺激するようなハマり役だったのだが、それはまあ脱線……。

 今回読んだエマニュエル・カレールの「『ル・モンド』使用法」は、まさにこのパフォーマティブなテクストで出来ている。しかも下ネタだらけ。いわば、下ネタ満載版のビュトール『心変わり』である。

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 この短編小説は、フランスの新聞『ル・モンド』2002年7月21日号に載った。そして、小説はまさにその同日発刊の『ル・モンド』を携えて、パリからラ・ロシェル行きの列車に乗るはずの「きみ」に向けて書かれているラブレターを呈している。つまり、列車である人物に読まれることを前提とした二人称(書簡体風)小説が『ル・モンド』に載っているのだ。しかも舞台はまさにテクストが世に出る日! だから、冒頭の一文はこんな感じだ。

《駅のキオスクで、列車に乗る前、きみは『ル・モンド』を買った。ぼくの小説が発表されるのは今日だ。ぼくは今朝、電話できみにそのことを伝え、絶好の旅の読書になるだろうと言い添えた。》

 テクストは「きみ」が電車に乗るところから、ほとんど同時間的に進められていく。語り手は「きみ」に対し、ひとつのゲームを提案する。文字で書かれている・指示されていることを、その通りに「きみ」にしてもらうというゲームだ。たとえば、十分間読むのをやめると書いてあれば、「きみ」は読むのをやめなければいけない。

 おそらく書き手とセフレ関係にある「きみ」に向けて書かれるのは、セクハラめいた下品な記述ばかりである。衣服の下の肌がどうだとか胸を愛撫する語り手の指だとかの描写をしたり、濡れるだとかなんだとかそんなことばかり……。でも、そんな風に扇情的な文章で煽ってくる語り手には一つの信念があるらしい。それは次の一節で明らかになる。

《文学には効力があるものであってほしいと、ぼくは思う。言語学者がパフォーマティブな言表を定義した意味で、文学はパフォーマティブであってほしいと理想的には思っている。[……]おそらく、あらゆる文学ジャンルの中で、ポルノはこの理想に最も近いと言えるだろう。「きみは濡れている」という言葉を読むことは、濡れさせる。これは単なる例で、「きみは濡れている」とは、ぼくは言ってない。だから、まだきみは濡れてない。もし濡れているのなら、きみは注意を払えていない。》

 まったく、そんな信念でもってこの先もエロティックな描写ばかり続けるのだから馬鹿みたいだ。でも、5月23日木曜日にロシアで語り手はこの文章を書いていて、読み手の「きみ」は7月20日土曜日にフランスにいることを考えると面白い。「ぼく」は未来の列車の中の様子など知っているはずもないというのに、「きみ」の隣客について記そうとする。

語りの時間と出来事の時間の転倒は、この小説の面白さのひとつだ。つまり、超一般的な小説は【過去に起こったこと】を振り返りながら、【今書いている】。でも、この小説は、【今起こっていること】【過去に既に書いている】。単なるエロ小説かと思ったけど、そういう書くことをめぐる時制の転倒が、パフォーマティブなテクストだとできるってわけか!

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 そして、この小説が真に面白くなるのは、書き手によってあることが示されてしまったときだ。あることとはなにか。それは「きみ」になりうる人物が、読者には確定できないということを語り手が気づかせてくる瞬間である。ブロンドで首が長く、スリムなウエストに豊満なヒップをもった「きみ」は、名指されていないのだから、読者の女性のなかに当てはまりうる人物は無数にいる。そうだとすれば、語り手がエロティックな指示を出していた相手である「きみ」とは、いったい誰になってしまうのだろうか。

《主人公はきみで、でもそれを知っているのはきみだけで、他の女たちはきみであるようなふりをしている。二時間前から、主人公はきちがいみたいに濡れていて、他の女たちもきちがいみたいに濡れ始めている。》

《ぼくはこの状況が大好きだ。『ル・モンド』のおかげで、彼女が本当に存在するなんて最高だけど、彼女をどうやってコントロールすればいいか、もはやわからない。人は多すぎるし、パラメータも多すぎる。だから、もうコントロールはしない。やめるんだ。もちろん、いろいろなことを想像しつづけている。動き回る視線、控えめな笑み[……]》

 この瞬間から、ラブレターを読まされているだけで、語り手ときみの紙面での恋愛遊戯に付き合わされている部外者だと思っていた読者たちも、やっぱり自分こそが「きみ」なのではないかとドキッとさせられるかもしれないし、いやはやそれでもやっぱり私は断じて「きみ」ではないと思うだけなのかもしれない。いずれにせよ、「きみ」とかいう代名詞のせいで、このパフォーマティブな物語文章はより複雑な効果を生みだしてしまうのであり、語り手は終結部で、パフォーマティブなだけでなくインタラクティブ〔相互作用的〕になりうる読者それぞれのバージョンを語り手のヤフーメールに送ってくるよう勧めてくる。パフォーマティブからインタラクティブへ。なかなか技に富んだ短編だ。

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【今回の小説】:Emmanuel Carrère, L'usage du Monde, dans Le Monde,‎ 21 juillet 2002.

【注】今回の短編のタイトルは、もっと単純に「『ル・モンド』の利用」とか訳してもいいんだけれど、ジョルジュ・ペレック『人生使用法』の訳題がカッコよかったからパクってみた。もちろん、ペレックのほうの原題は《La Vie mode d'emploi》でちょっと使ってる単語がちがうんだけれど、そこはご愛嬌ということで……。

【注】この短編はのちに同作者の『ロシア小説』(2007年、未邦訳)という長編に組み込まれたそうです。