イザベル・ユペールのインタビューを読み、聞く

【以下は配布リーフレットに記載したものと同内容です】

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 イザベル・ユペールのインタビューはいつも興味深い。知的な彼女の発する言葉のどれもが真理を捉えているようで、迷いがないからだ。『レースを編む女』と『ヴィオレット・ノジエール』に関係するインタビューを中心として、彼女の発言をいくつか紹介したい。

 まずは、1978年5月19日にテレビ放送されたインタビューだ。カンヌ国際映画祭にて、『ヴィオレット・ノジエール』で女優賞を獲った直後のものである。このインタビュー冒頭から、映画祭は好きではないとはっきり表明するユペールには圧倒されるものがある。インタビュアーはぴったりな言葉を探すようにして、ユペールの演じる人物たちを「不可解なところがある、説明できないような人物」と評し、レースを編む女とヴィオレット・ノジエールというふたりの女性に共通点があることを指摘する。この点について、ユペールは迷いなく自らの考えを以下のように語る。

しっかりと現実に入り込めていない、思春期と成人の境界にいるような、すごく内向的で、自分のことでいっぱいで、想像のなかに生きているような人物が好きなんです。私はそういうタイプの人にかなり惹かれますし、レースを編む女とヴィオレット・ノジエールのあいだに共通項があるというのは、そうですね。外の世界と関係をしっかり持てずに、物事を夢や幻想の内に見ている人物たちですので……。

Isabelle HUPPERT à propos de "La Dentellière" et des "Indiens sont encore loin" | INA

ここまではっきりと演者に指摘されてしまえば、言うべきことはなにもない。外の世界と関係を結べない人物とは、その後のイザベル・ユペールが演じてきた多くの人物の特徴でもあり、25歳の時点で、演じているキャラクターを彼女は自覚的に分析・理解している。

 あるいは、ヴィオレット・ノジエールという人物については、別の放送でも次のように話している。

ヴィオレットは、ものすごく苦しんでいる痛ましい人物だと思います。彼女の行為の恐ろしさに匹敵するのは、彼女の苦しみだけです。彼女の攻撃的な行動はどれも根本的な愛の欠如と、その絶対的な探求という狂気の代償に過ぎません。

Isabelle HUPPERT à propos de "La Dentellière" et des "Indiens sont encore loin" | INA

 実は、シャブロルはインタビューで、ヴィオレットの主張する父親による近親相姦を否定している。ユペールは近親相姦の有無には直接的には触れていないものの、ヴィオレットの苦痛を理解しているように思える。精神分析学の用語に「インセスチュエル」という語が存在する。この言葉は、実際に近親相姦があったかどうかを問わず、近親相姦的状況が存在したことを示すものである。ヴィオレットが実際に父親と近親相姦の関係にあったかどうかは不明であるとしても、あんなに小さな部屋で親の性行為を毎夜見せられているのであれば、それは近親相姦に匹敵する性的な虐待だ。ヴィオレットは「インセスチュエル」の只中にあったと言えるだろう。だから、問題はヴィオレットの証言の真偽というよりも、彼女の苦しみを映画の中で表現することにある。このインタビューを見ると、ヴィオレットの抱える苦痛の重要性を、ユペールはシャブロル以上に理解しているように思える。

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 苦しみを抱えた人物を、言葉少なく振舞いや身にまとう雰囲気で伝えることをユペールほど得意とする人物もいないだろう。実際、ポムのような台詞の少ない人物を演じることについて、ユペールは次のように発言している。

私には難しくありません。むしろ簡単です。黙っている役よりも、たくさん話す役を演じる方が難しいんです。映画では、視線や沈黙によって、たくさんのことを表現できますから……。映画は沈黙のアートなのです。

Isabelle HUPPERT à propos de "La Dentellière" et des "Indiens sont encore loin" | INA

『レースを編む女』と『ヴィオレット・ノジエール』の二作品は、ラストショットが共通している。ミコノスのポスターが貼られた室内で、私たちのほうを見つめているポム。同室の囚人に「今ならできる」と希望を語って顔を上げ、私たちを見つめてくるヴィオレット。ユペールが演じるふたりの女性には、それぞれの意味は違うとしても、力強いまなざしが共通している。

 このふたつのショットにおいて見つめてくる彼女たちが、どのような感情をもっているかについては、鑑賞者によって感じるものが違うだろう。それでも、まなざしの力強さだけは、誰にも否定しがたいものだ。こうした「見つめること」をめぐり、ユペール自身は後年しっかりと自己解説を行っている。

様々な感情に対して、てこのように作用するのがまなざしの力です。[……]あなたをひきつけるまなざしの力は、あなたに何かするよう駆り立てます。また、私は自らのまなざしをカメラのレンズに近づけることが好きです。決して越えられない境界があるとしてもです。観客が私に、私の内面にできるだけ近づいてくるんだという強い意識をもちながら近づけるんです。

Cahiers du cinéma, n. 477, mars 1994.

 ユペールは、やっぱりあらゆる演出に意識的な人物だ。ユペールにとって、カメラの前で露わになる顔のクローズアップは、登場人物の内面を私たちに伝えようとする試みに等しい。人間の内面は複雑で、簡単に理解することはできないだろう。それでも、というよりも、だからこそ、我々を見つめるショットは魅力的だ。

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 最後に紹介したいのは、小説家ナタリー・サロートとの対談だ。サロートが自らの作品の特徴である「内面の描写」について講釈を垂れるこの対談には、ユペールとサロートが言い争いをする部分がある。そして、そうした一節はユペールの立場・意志表明とも捉えられるので、紹介したい。

ユペール:女性文学の特性というものがあると思いますか?

サロート:それよりひどいものはないですよ。

ユペール:けれども、あなたの小説を読んでいると、非常に具体的な物を通じた強迫観念が示されているように感じるのです。事物への執着はとても女性的だと思いますが……。インゲボルク・バッハマンを、『マリーナ』の中で描かれた脅威的な物への執着を、彷彿とさせます。

サロート:(熱弁して)それが女性的かは人が決めることですし、私の作品には物への執着はありませんが……。

ユペール:わかりませんね、『プラネタリウム』の革製のソファーは……。

サロート:ああ……。バルザックを再読しなさい。

ユペール:はい。でも、古典的な作家においては描写ですが、あなたの作品では……。

サロート:事物は触媒です。私の文学の新しさは、事物そのものが消失し、触媒としてしか価値がないということです。女性的かどうかということではありません……。みんなすぐに「これは女性的だ。繊細で、細部にこだわっている」と言いますよね。ヘンリー・ジェームズを読んでごらんなさい。

ユペール:はい。でも私としては、軽蔑的なニュアンスではなくて……。

サロート:そうじゃない、そうじゃないの。私にとっては軽蔑だわ。

Cahiers du cinéma, n. 477, mars 1994.

 対談を読むと、ユペールとサロートの立場の違いが明白になっていると思う。ユペールは「女性的である」ということに積極的な意味をもたらそうとするのに対し、サロートは断固として男女で判断することを拒絶する。というか、とにかくサロートは対談全編を通じて、「心内の動きの描写」以外のあらゆる話題で否定を続けている。

 しかし、別にユペールは本質主義に陥っているわけではないし、「女性的なもの」に積極的な価値を見出す彼女の立場こそ、現代における一つの試金石となりうるのではないか? さらには、『黄金の果実』にジャック・タチっぽさを見出したりしてしまうユペールのほうが、よっぽどサロートよりも思考に柔軟性をもっていて、興味深いのだが……。