「フランス映画と女たち」上映の意図

【以下は配布リーフレットに記載したものと同内容です】

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 「フランス映画と女たち」と題された本企画が扱うのは、いずれも、これまでに十分な上映機会にめぐまれなかった作品たちである。しかし、三本とも旧作であるために、「今更」という感情を抱く映画ファンもいるかもしれない。なぜ、今になってこの三本なのか。

 ここ数年、女性映画監督の特集上映が増していることは誰の目にも明らかだろう。シャンタル・アケルマン、アニエス・ヴァルダ、メーサーロシュ・マールタをはじめとして、多くの女性監督の特集上映が組まれている。シネフィルたちが長らく女性監督たちを無視してきたことを清算するかのような特集には、もちろん多くの意義がある。けれども、映画と女性について再考するには、まだ注目すべき点が多く残っている。

 なによりもまず映画に存在しているのは、女優である。そして映画を見ることが女優を――そして女優の身体を――見ることと、深い関係をもっていることは紛れもない事実である。女性の身体に魅了され、スクリーン上の女性の身体に欲望することが、映画ファンたちに秘められた常識であったとも言えるだろう。

 従順で聞き分けがよく、欲望可能でエロティックな身体をスクリーン上に晒してくれる女性がいれば十分だ、そう考えている鑑賞者も未だにいるかもしれない。そんな思いを抱くのは、2022年に『恋に踊る』(ドロシー・アーズナー監督、1940年)を見たときの出来事ゆえである。この映画には、舞踏団の女性が壇上で、自らが男性客にまなざされることで性的に搾取されるのだと感情的に訴えるシーンが存在する。私が鑑賞した回では、残念なことに、多くの客がこの場面で声をあげて笑っていた。

 これをきっかけに、女優(の身体)へのまなざしを変えてみたいという観点から出発したのが本企画である。この特集上映で選定した三本は、いずれもエロティックな欲望の対象としてまなざすことを容易に許さない女性たちの姿を映している。鑑賞者の中に、『レースを編む女』のラストショットに戸惑いを示す者がいるであろうことも、ヴィオレット・ノジエールや『盗むひと』のジュリアにまったく共感できない者がいることも、企画者は十分に想定済みである。しかし、企画者としてそれぞれの映画の「正しい」見方を示すつもりもない。他者の映画の見方・需要を大きく変える講釈を垂れることはしたくないと思っている。鑑賞者に思考を促すのは批評家や企画者ではなく、映画そのものだからだ。上映作品たちを通じて、それぞれの鑑賞者が歯がゆい感情を抱き、様々なことを考えてくれるならば、企画者としてそれより嬉しく思うことはない。

「フランス映画と女たち」企画:竹内航汰(東京外国語大学博士後期課程)